どうしていいか、判らなかった
010:胸の奥の醜い感情を、押し殺せる自信がなくただ立ち尽くすだけ
さらさらと字を書きつけていく手元に刺さるようなものを感じて葛は顔を上げた。近くには何物さえもなく気の所為と判じるには余りにも鮮明だ。探すように目線を転じれば長椅子へ行儀悪く腰かけた葵が睨みつけるように葛を見つめていた。長椅子や応接は来訪客のためのものであるが、客足がともすれば途絶えがちなこの写真館では葵の指定席になっている。客が来れば察して退くので特に問題は発生していない。あてがった抽斗を開けた様子もなく、何か作業に窮した訳ではないようだ。睨まれて肩を縮める性質では葛もないから睨みかえす。睨みかえすのは一種の防衛だ。葵は開けっ広げな性質以上に強い視線を持っている。特殊能力が視界で限られる性質も影響しているのだろうか、葵の視線は常では考えられぬほど強い。
葵の能力が目に見えぬものであるからじかに圧されていると思うほどに葵の目線は物を言う。喜怒哀楽を隠さぬからなお一層そのきらいは顕著だ。しばらく二人ではち合わせた猫のように睨みあう。葛は猫のように全身の毛が逆立つような刺激に震えた。皮膚が締まり鳥肌のように触れば判りそうだ。圧してくる相手に退いてはならない。嵩にかかられるだけである。だから葛が睨みかえすこれは見栄や防衛やそういった守りのものだ。
「なんだ」
短い誰何だが葵は正確に理解したらしく、凛とした眉筋を意味ありげに片方だけつり上げて見せた。
「今夜寝床で待っててもらえたら嬉しいんだけどな」
「何が言いたい」
葛は問わずとも判っている。葛の行動で最近は寄ると触るとこの話題だ。葛も自覚している。直す気がないだけだ。もちろんそれを感じ取れない葵ではないから双方共に苛立ちが募る。潮時とも言うべき発火だ。
「具体的に言っていいんだ。どうして最近ご無沙汰なのか訊きたいんだけどな」
沈黙する葛に葵は言い募る。相手が出来たなら言ってほしいな、用意があるから。あざとい台詞であるのは葵も承知の上でけしかけている。沈黙の返答に満足しない葵の舌鋒はますます毒を帯びた。
「葛ちゃんは綺麗ですからそりゃあおモテになるでしょうけど、こちらにも用意というものがありまして。いきなり終わりですって切られたって感情がはいそうですかなんて言うもんか。納得できなきゃあ始末もつかない、相手の始末も付けるのは普通ってもんでしょうに」
わざわざ聞きづらい言葉尻で話すのは葛への不満と嫌がらせだ。葵の肉桂色が冷たく煌めいた。
「それとも路地裏でいい情夫でも見つけた?」
意識するより早く葛の拳が机面を殴りつけた。帳面や筆立てが落ちてあたりに中身をばらまいた。奥歯を噛みしめて軋む怒りが判る。青筋の一つや二つ、立っているかもしれない。堪えることに長けているのは葛が堪えることしか知らないからだ。堪えは消えるわけではないからここしばらく互いにつつきあった鬱憤がついに臨界点を超えた。
「馬鹿馬鹿しい」
すっと葵の姿勢が変わる。次の瞬間、屑籠が宙を舞った。中身をまき散らしながら転がるそれを葵の足が抑える。踏みつぶすような強さのそれに葵の側の堪えを示す。
「馬鹿馬鹿しい? はは、そりゃオレが言いたいよ。オレはお前との関係を軽く見積もったつもりはないぜ」
葛は今まで暮らしてきて判ったことがある。葵はおおらかで明るいが決して底は浅くない。軽薄に振舞うのは軽薄の意味を知っているからで、わきまえるべき時は心得る。そして葵もなにも感じないわけではない。しばらく沈黙が下りた。小規模とはいえ発露と爆発の続いたことに思った以上に疲れを感じている。何とも思わぬ相手であったならこのまま自室へ引き取って強引に終わらせるだけなのだが葵が相手だと葛の調子は何故だか狂う。葵もそれを感じてくれているようで多少の無理をしてくれる。互いに感じて譲歩を繰り返してきた経験がある。
葵は蹴り飛ばした屑籠を戻して中身を拾いだした。黙々としたその動作からにじむのは怒りであるのに、その矛先は必ずしも葛の方ばかりに向いていない。その聡明さが葛には恨めしい。葵が自分勝手な暴漢であれば葛もそれなりの態度で臨む。譲歩を見せられて無感覚でいられるほど葛は冷淡になりきれない。葛も膝をついて帳面やペンを拾った。ペン立てを戻し、先端を確かめながら戻していく。床を睨みつける葛の耳にかろうじて届く声がか細い。
「ごめん」
ペンを拾う指先が震えた。喉の奥の熱いものが溢れてしまいそうで葛は唇を噛みしめた。この激情をやり過ごして何でもない顔をして日々を暮らせるし、暮らすしかない。葵と葛が寝食をともにしているのは彼らよりずっと上層部の方針で、それは申請したからと言って受理されるような優しいものではない。気不味かろうが取っ組みあおうが、ひとたび命令が下ればそれをこなすしか選択肢はないのだ。しかもたいていの任務は緻密と連携を要求されるものばかりだ。
何もなければ屈託なく朗らかな葵の顔を曇らせているという事実が葛には歯がゆく、辛い。写真館での応対を見れば葵の人となりくらいは掴める。葵の視野は広く認識範囲も狭くない。融通も利く。来るものを邪険にしないし、真摯なほどに本気で対する。葛は己にないような葵のそういう性質に惹かれた。葛の目の前で終わっていた世界は広くて驚くけれどそんな葛を葵は馬鹿にしたりしない。葛の家は狭くて関係も狭い。面積ではなく奥行きだ。葛の世界は軍属で終わっていた。世間知らずとも言うべきそれに葵は、でも綺麗だよといった。屈託ない笑顔で綺麗でいるのって大変なんだ、だから別に気後れしなくていいんじゃない、とあっさり言った。自己反省しきりの葛に葵はあっさり手を差し出す。払いのけてもいいけど掴んだっていいよ。上からではない影響は初めてで、葛は胸が高鳴るような気さえした。上下以外の関係が心地よいと思ったのはそれが初めてだ。
その弛みを葛は拒否しない。感じてしまったことから目を背けることはできないし、それで葵の侵入を赦したことさえ葛は構わないと思った。葵は入り込んだ分、葛にも手の裡を見せた。葛から見せろと強請ったことはない。葵がほらほらとこんなだよと見せてくる。指摘した葛に葵はへらへら笑って、オレはオレを見ない人は嫌だから、といった。
「かずら」
葵の声が静かだ。扉一枚隔てただけの喧騒はどこか遠い。乾燥して白く揺らぐ日の光が葵の逆光になる。薄い闇に覆われた葵の顔が泣いているような気がして葛の体が焦燥に灼かれた。
「オレの事、嫌いになった?」
この時ほど憤怒に灼かれて狂ってしまって居たかったことはなかった。怒りに灼かれて何も判らぬままに判断さえ失ってしまいたかった。何も判らなくなっていたら何も感じなくてすんだのに。葛の喉は返事をしようと引きつれて、乾燥に攣った。掠れたそこからは音さえ漏れない。唾液を呑んで喉をうるおして話せばいいのにその唾液さえない。引き結んだ唇がわななくだけだった。泣きだす前にも似たその痙攣は葛の冷静さを奪っていく。
それでも葛は外的には何の変化さえない。葛が泣きだしたいほど辛くても痛くても泣きだすまで周りは片鱗にさえ気付かない。幼いころは周りの鈍感だと憤ったが長じてから、表情が変化しないからだと気づいた。葛の表層は内部と驚くほど連動しなかった。限界値を迎えるまで気配さえ悟らせなかった。それでは気付いてくれないと言うのは云いがかりでしかなく、葛も自然と求めなくなった。葵の双眸が不意に眇められた。やぶにらみというより慈しむようなそれに葛が怯んだ。
「葛、泣きそう」
そう口にする葵の頬が火照って目元が熱く腫れている。葵の方が泣きだしそうだという悪態は葛の唇を割らなかった。いつも我の強さを示すように筋の通った眉筋が情けなく下がり、朗らかな双眸が眇められて潤みきっている。
「泣かないで。お前が泣くなんてよっぽどのことだろうから、でも泣いてほしくないんだ」
触れてくる葵の指は冷たい。昼日中であれば汗ばむ陽気であるのに葵の指先は薄氷のように冷たく脆い。いつの間にかそばへいた葵が屈んでいる葛にあわせるように膝をついていた。澄んだ肉桂の双眸は潤んで透明度を増している。赤らんだ頬やわずかな震えを帯びる葵の端々に嗚咽を堪えているのが見て取れて葛は慟哭したくなる。
冷たい指先がふわりと葛の唇を撫でた。つぅと撫でるその指先が紅に染まる。
「切れてる。そんなに強く、噛むなよ」
息が詰まって開いた唇が戦慄いた。嗚咽が喉からほとばしりそうになる。それを塞いだのは葵の唇だった。切れて血の乗った唇を葵は躊躇なく吸った。頤を抑えるように添えられた指は冷たいのに手の平は火照っている。葛の体が融けて行く。強張りが融けて葵の熱が浸透してくる。それでいて葵は乱れるふうでもなくついばむだけで退こうとする。葛の手が葵の肩を掴んだ。ちゅ、と濡れた音を立てて離れた葵が意味深に瞳を煌めかせた。
「葛、同情は要らないんだ」
まっすぐ正面から睨む葛に葵は困ったように小首を傾げた。葛が同情で体を赦す性質でないことを葵は承知の上で言い訳を与えている。葛が口元を引き結んだ。唇に乗った血が移って葵の唇までもが紅い。噛みしめた傷は案外深いようで脈打つ痛みが口元からする。溢れた血は伸ばされた範囲に伸びてたゆたい、広がりを見せてから滴となって落ちようとする。垂れそうになるのも構わず葛は言い切った。
「俺は同情で体の関係を持つ気はない」
ぷくりと厚みを持って潤む紅い唇が滑らかに動いた。
「俺はお前との関係を、同情の産物だとは思わない」
滴になって垂れそうな血ごと葵が吸った。二人の唇の間でせりあがった紅が互いの唇を汚した。紅く紅を引いたようなそれが滑稽だ。
葵の唇が案外厚みを持ってふくよかであるのが判る。紅をさせば映えた。いつも口の端を吊り上げて笑んでいるので伸びた状態しか知らない。引き結べば案外厚みがある。
「葛の唇って綺麗だよな。なんだかすごく、色っぽいよ」
きょとんとする葛に葵がははっと笑う。血で汚れているのに紅をさしたように化粧した。
「葛って化粧したら似合うよ、きっと。着物なんか着たらたまらないな。艶やかだからさ、化粧が映えると思うんだ」
「……ばッ、ば、かばか、しい…! 俺は男だぞ、男が化粧など」
「だって綺麗なんだ、しょうがない」
似合うんだ、しょうがない。見もしないのに葵は当然のように言いきった。綺麗なものを綺麗だと言うことや綺麗にする手段に制限なんかないよ。葵の屈託ない笑みが広がる。にかっと白い歯を見せて笑う葵に葛は唇を尖らせた。むっと押し黙ることさえ葵は笑んでくれる。
「かずら、かんがえなくていいから」
問い返す間は与えられなかった。
「お前を苦しめるものがなんであっても、オレはお前が好きだ。苦しんでいるのを見るのは辛いけど、目を背けようとは思わない。お前がどうしても辛くなったら助けを求めて。そうしたらオレはどこにいても飛んでいくから」
葵の双眸から目が逸らせない。肉桂で色は薄いのに深みは底知れない。葵の唇はよどみなく言葉を綴った。
「お前が辛いと考える境遇でさえお前のものなんだ、だからオレはそこから目を逸らしたくない。お前が忌まわしいと思ってもお前を成す一因であるから見ないふりなんかしない。お前をかたちどるもの全てをオレは見たい。辛くっても苦しくってもそれがオレの選んだ道だから。オレはお前を見るって、決めたんだ」
だからお前を成すもの全てをオレは、見たい。辛いことも苦しいことも醜いことも、オレは目を逸らしたりなんかしない。
「お前がお前の首を絞めたいって言ったら止める。でも、無理強いは出来ないって判ってる、でもオレは止めるよ。オレはお前の全てが好きだから。せめてそう、思わせて」
潤んで眇められる双眸に葛は言葉さえなくて、けれど葵はそれを責めたりはしない。葵は葛の嫌悪さえも言い当てる。それでいて手応えの無さに倦んだりもしない。葛は感情を殺すことに慣れすぎた。殺しすぎて悟ってほしい時でさえどうしたら良いか判らない。だから葛は茫然と立ちすくんで誰かが気づいてくれるのを待つしかなかった。泣くことも喚くことも忘れて葛はただ一人で佇んで、気まぐれな誰かがどうしたと声をかけてくれるのを待った。
「かずら、辛い時は喚くんだよ、哀しい時は泣くんだ。どうしたいいか判らなかったらとにかく泣いて喚いて、そうすれば誰かしらが何か一言くれるから。何もしないで黙っていたらだめだよ、お前が辛いだけだから」
葵の表情が切なげに歪んだ。泣きだしそうな叫びだしそうなそれは葛の意識の根底を揺さぶった。葵は何もかも知ったように葛に言いつける。泣くことは弱さじゃない、辛いことは劣等点じゃない。感情を殺すな、だってそうじゃないと判らないだろ。そういう葵の方が泣きそうだ、叫びそうだと葛は思ったが口にはしなかった。葵は頬を寄せて葛を抱擁しながら震えている。その震えが嗚咽から来るのか恐怖から来るのか葛には判らない。感情を殺して抑えてきた葛は感度も鈍くなっていた。判らない。哀しいとか辛いとか何も判らないことに愕然とした。これでは。これでは葵が哀しい辛いと言ったときにそうだなと同調さえできない。同情さえできない。
何も出来ないことに恐怖したのは初めてだった。醜い、と思う。何も出来ないただの己がひどく劣って醜く、なんの価値さえもない。同情も出来ないなんてただそこにいるだけ。意味さえ理由さえなくてただ。あぁ、俺はちっとも綺麗なんかじゃない、醜く醜く、何も出来ないだけの肉塊だ。感情がないなんて俺は、獣以下だ。獣でさえ快不快を示すと言うのに。何も感じないなんて、そこにあるだけの、肉の塊。醜い感情の行き交いさえなく俺は何も出来ずにたたずむだけの。
「かずら?」
小首を傾げる葵はひどく可愛らしくて美しくて葛はただ、嫉妬、が。潤んだ肉桂はなだめるように葛を見つめて眇められる。
「あおい、あおい、おれは、みにくい――」
葵は唇を重ねた。息を呑んで動けない葛に葵は笑んだ。
「あおい?」
「オレがお前を信じたいのはオレの勝手な感情だから、お前がオレに嘘をついていてもいいんだ。でも、お前が自分を醜いっていうのは赦せない。お前は醜くなんてないよ。むしろ、綺麗なくらいだ」
葛の根底が灼熱に灼かれた。お前が見ていない俺はなんて醜いんだろう。外に見せない面が醜いなんて、なんて下劣な。浅ましい。醜い。葵といるだけでそれが際立つような気さえした。葵は屈託なく綺麗で朗らかで清らかで。だから俺は、俺の醜さが穢れがもう目について仕方ない。背けることさえできない汚さで。引き結んだ唇が切れるほど噛みしめることに葛は気づけない。俺はなんて、けがらわしい。だがこの汚らわしい感情を示したら葵はオレが悪いのかと気に病む。だから殺さなくてはならない。俺の中だけで収めなくてはならない。葵に悟られては、ならない。
「すまない」
取り繕う。葵は綺麗でだからせめてお前だけは綺麗なままでいて。俺のように穢れたり、しないで。こんな醜悪ささえ葵には程遠い。だからせめて醜い俺なんか見ないで。嫉妬や羨望や、俺は、なんて、なんて醜いんだろう。
「すまない」
せめて詫びたい。だから口先だけでもいいから詫びる。葵の表情が冷えた。すっと朗らかさが消えて葛はただ、罵られるかなと思った。葛の醜さに気付いたら罵らずにはいられないと、葛は何故だかそう思った。
「葛、オレはお前が汚いなんて思わない」
葛の目蓋が薄く開いた。潤んだ漆黒へ訴えるように葵は言葉を綴った。
「オレはお前が穢れているなんて思ったことはないし思わない絶対に!」
葛は黙ってそれを受けた。同情なのか、けれどそれがなんであるかの判断力さえ己にはない。けれど知らなくていいことがあるのは知っている。だから葛はあえて深く問わない。知らなければ被る傷も浅くて済む。
「オレはお前が好きなんだ、それだけなんだよ、本当に」
お前が信じてくれなくてもいいけど、信じてくれなかったら辛いよ。葵の声は血を吐くように熱く掠れて粘ついた。
「人って醜いのかもしれない。でもだから生きてゆけるし綺麗なものに憧れるんだよ、それで生きてゆけるんだ」
葵の目が遠くを見た。
「オレは真っ当じゃない恋愛を見たけど醜いとは思わなかったよ。汚らわしいとも思わなかった。醜くても穢れていても、生きていることが肝心なんだよ。生きてなかったら、どうしようもないじゃないか」
葵の手が頤を抑える。葛は目蓋を閉じた。薄い皮膚へ突き刺さるように葵の強い視線が投げられる。葵のその言動の根源が何に由来するかを葛は知らないし知らされてもいない。
「生きてなきゃだめなんだ。なんでもそうだよ、相手がいなくちゃだめなんだよ」
すがりつくような葵に葛は言葉をかけられない。葵の揺らぎが何に由来するか知らない。だから言葉がかけられない。葛の逡巡さえ感じ取って葵は笑んだ。
「お前のそういうところが、好きなんだ」
あぁ、俺は。俺はなんて。
なんて醜い
「おまえは、きれいだ」
葛は目を閉じた。
俺はなんて汚いんだろう。
《了》